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アフガン写真展 ハンマービームを訪ねて 四季を訪ねて 世界遺産を訪ねて リンク

1.はじめに
 昨年7月から始めた「歴史的建築物の保存とリニューアル現場をみる」見学会は内田祥哉先生が案内人となり、 見学会を通して新築より再生、修理と新築の面白さの違い等を肌で感じ、日本人の永久建築への夢を追い求める企画である。 今年1月に日本女子大学創立100周年記念で「成瀬記念講堂-その建築と変遷」の特別展示をするので再度成瀬記念講堂見学会を開催した。 この建物との最初の出会いは保存か、一部保存かと議論されていた平成6年で、当時は、清水建設構造設計部に在職しており、 改修工事において耐震性、耐久性等の現行法規との整合性の検討を担当していた時からです。最初の印象は、外壁の白ペンキがはがれかけた木造の建物であったが、 内部は明治期の空間がそのまま残っており驚きと感銘を受けた。 また、身近な都心にこのような木造空間が現存しているとは思いもよらなかった。 当時、日本建築構造技術者協会の木造部会の主査をしており、出来るだけ多くの方に木造の可能性を秘めた創造豊かな空間を観てもらおうと見学会を開催した。 100年間使用している保存状態をみてもらおうと再度企画したわけである。 日本女子大学成瀬記念講堂の小屋組は梁間方向にハンマービーム構法を採用し曲線木材と鉄製タイバーにより緊張感をだしている。 桁行方向には曲線の繰り形に方杖を内在させるテクニックを用いるなど空間の完成度に優れ、質素で、かつダイナミックな時代の先端を行く空間を創造している。 その完成された美しさを設計者田辺淳吉が如何にして創りあげていったのだろうか。田辺淳吉は明治39年の建築雑誌に同時期の作品について「大阪瓦斯事務所及び同説明」を投稿しているが、 成瀬記念講堂についてはとくに経緯が残されていない。 田辺淳吉は佐野利器、佐藤功一、大熊喜邦、北村耕造等と同期で帝国大学工科大学建築科を明治36年に卒業。 卒業と同時に清水組に入社し、明治42年に欧米視察し、岡本?太郎の後を継いで大正2年から9年まで技師長になっている 。大正9年に清水組を退社し、恩師中村達太郎と設計事務所を開設し、大正15年に逝去、48歳であった。大正10年に佐藤功一編『田辺淳吉氏作品集』を出版したがその作品集にも成瀬記念講堂の記述がないなど不思議な点がある。 そこで明治期のハンマービームを採用した建物を訪ね、設計者とその周辺の事情を調べ始めました。
  
1.1 ハンマービームとは
 ハンマービームは1350年ころイギリスの教会で用いられた木造の小屋組で、当初はスパンを広げるために用いられた構法といわれ、時代とともに装飾的に用いられてきた。 近年移民とともにアメリカでも用いられるようになり、明治時代に入り外国人宣教師、キッダーやフレッチャーの本等で日本に紹介された。 図1は明治12年竣工・J.コンドル設計による訓盲院の断面図で、おそらく日本で最初のハンマービーム小屋組を採用した建物であると思われる。 明治期に建設されたハンマービームを用いた建物を、小屋組を現わした工法と折上げ天井を設けた構法に、また、ハンマービームを結ぶタイバーの有無を年代別に表1に示す。 また、同じ縮尺の断面図を図示した。

図1 訓盲院 スパン11.5m


表1 ハンマービーム構法を採用した建築物
竣工年 建物名称 天井 タイバー 設計者
明治12年 訓盲院 折上
コンドル
明治19年 同志社礼拝堂

グリーン
明治27年 平安女学院明治館 折上 タイバー ハンセル
明治28年 千葉教会 折上 タイバー ゼール
明治33年 山手18,152番地邸


明治37年 関西学院ブランチ・メモリアル・チャペル *1
タイバー ウィグノール
明治39年 日本女子大成瀬記念講堂
タイバー 田辺淳吉
明治41年 旧大蔵省塩務局庁舎 *2 折上
大蔵省
明治45年 京都洛陽教会
タイバー ヴォーリズ
大正4年 求道会館
タイバー 武田五一
*1 現神戸市立王子市民ギャラリー *2 赤穂市立民族資料館

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