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2.6 明治学院ミラー記念礼拝堂 ドイツ人 R.ゼール設計 明治36年竣工
 明治学院ミラー記念礼拝堂はゼールの設計で明治36年に竣工した。 明治学院礼拝堂建物調査報告書によると外壁が煉瓦造の建物で、建設場所が軟弱なため木材や石材を埋めて軟弱地盤対策を行い、 さらに九尺ほどの高さに石材で階下を設けた。
 この建物は工事現場でゼールの紹介者であったランディス教授が足場から落ちて負傷している。  明治38年3月の地震で亀裂、修復後42年3月の地震で壊れ、取り壊された。
  その後、現在の礼拝堂がヴォーリズの設計で大正4年に建て直されている。  設計見積りで他社より半額で建設可能と回答したことでヴォーリズが選ばれた理由と記されている。 同志社クラーク記念館が竣工してから10年後に、明治学院ミラー記念礼拝堂が明治36年に竣工している。 建物が現存してなく設計図書も保存されて無いため小屋組にハンマービームが使用されたかは不明である。 内部の様子が不明であるが、成瀬記念講堂の設計時期に、同志社と関係ある設計者による東京の学校の教会が竣工していた。  R.ゼールと清水組との関係を調べた。  明治工業史「建築編第一編 明治後期の建築 第一節 独逸風流行時代 第二 技師職工の独逸留学」 によると、  独逸の建築技術を習得するために技師3名と高等職工17名が明治19年より三年間ドイツのエンデ&ベッグマン事務所等に留学した。  技師は妻木頼黄、渡辺譲、河合浩蔵の3名で、明治22年に帰朝している。  3名とゼールとは独逸においてはエンデ&ベッグマン事務所、日本では臨時建設局の職員として関係していたと思われる。  臨時建設局職員時代には工事部長が妻木頼黄、辰野金吾、渡辺譲と続いた。明治23年に臨時建設局が廃止された後、  渡辺譲が清水組の技師長として3年契約で入店した。  ゼールはエンデ&ベッグマン事務所の実務家として臨時建設局との契約では第一建築師として月俸四五〇円と記されている。  渡辺譲とは独逸時代、臨時建設局時代はもとより、清水組時代においても親交があったのではと思われるが、ゼールが独立した後に、  清水組がゼール設計の建物を施工した記録は無い。渡辺譲が技師長を退き、清水組を退職したのが明治27年である。  明治26年にゼール設計の同志社クラーク記念館が竣工しており、また、明治36年に明治学院ミラー記念礼拝堂の竣工している。  ゼールと清水組との関係は渡辺譲を通して親交があったのか、  渡辺譲の後に岡本荘(実際の漢字とは異なります)太郎が大正2年に田辺淳吉に継ぐまで技師長をしておりゼールが帰国するまでにゼールの作品を見るなど接点があったのかは不明である。  ゼールは明治36年にドイツに帰国しており、清水組田辺淳吉とは接触することはなかったと思うが、  学生時代を含め明治期の外国人建築師の作品を見学していた可能性は否定できない。

2.7 平安女学院礼拝堂聖アグネス教会 アメリカ人 J.M.ガーデナー設計 明治31年竣工
 平安女学院礼拝堂聖アグネス教会は十字形平面に側廊があり、その上に1層分の壁面がある。
その上部に鉄製のタイバーを用いたシザーストラスの小屋組があり、 桁方向架構のデザインの雰囲気が成瀬記念講堂によく似ている建物である。

2.8 関西学院ブランチ・メモリアル・チャペル 英国人M.ウィグノール設計 明治37年竣工
  関西学院ブランチ・メモリアル・チャペルはウィグノールの設計で明治37年に竣工した。  幾多の変換を経て、現在は改修を終え神戸市王子市民ギャラリーとして市民に再利用されている。  平成7年度BELCA賞BRB部門を受賞している施設である。
  外壁は煉瓦造の平屋の教会で小屋組にハンマービームを採用している。  小屋組の形状と鉄製タイバーを採用した架構構成が成瀬記念講堂と非常によく似ている。
  しかし、装飾的な収まりよりは質素さを感じさせる架構である。  管理事務所の方による建物の説明と施設の利用状況の説明があり、市民の文化活動の場にハンマービームが見られるのは大変うれしいことである。
 当時は教会宗派により教会相互の連絡が無いのではないかと思われたが、明治学院のランディス教授のように設計者を関西に紹介していることから、  ミッション学校同士の連絡が行われたと思われ、神戸の関西学院チャペルの竣工は学校関係者により知れ渡っていたのではと思われる。
日本女子大学成瀬記念講堂の設計の前年に竣工しており、関西学院のチャペルは設計者が関西にいれば見学した可能性はあるのではと思われる。

図7 元関西学院チャペルスパン10.6m
ミッションスクールの横の連絡は強く、明治の後半は建築師による設計へと、 関東、関西圏から全国展開し始めた時期と思われる。教会の設計は明治初期には宣教師による設計であり、 しだいに宗派の宣教師が教育した棟梁による設計、または、外人設計師による設計が多くなり、 大正期に入るとキリスト教の宗派に関係なくヴォーリズのような実績と情報を持つ設計事務所による設計へとプロ化していると思われる。   
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